第169回 練習において、なぜ失敗を認める必要があるか

今日は日々の練習において、自身の何を見ているかと言うお話です。

こんにちは。

トロンボーン奏者でアレクサンダーテクニーク教師のかたさんです。

     

【私がティーチングにおいてよく言われたこと】

私がアレクサンダーテクニークを学んでいるBodyChanceでティーチングレッスンを見てもらった時、様々な先生から言われたことがあります。
ティーチングレッスンとは、自分と同じトレーニー仲間に生徒になってもらい、自分がその人に実際にレッスンをしてそれを先生に見てもらうという、簡単にいうと教え方を見てもらうレッスンのことですね。

入学してからのBodyChanceでの学びは、私にとって全てが新鮮で毎回楽しく精力的に学んできました。
学びに対しての不安はなく、自分ができていないことがあっても「出来ていないことが当たり前」と思っていたので、それが辛いと思ったことは一度もなかったです。

ところがティーチングをする段階になって初めて、学びに対して不安と迷いが出てきました。
それは、生徒の動きが見えないことでした。
アレクサンダーテクニーク教師が、生徒の動きが見えなければレッスンになりません。

それに対する不安があり、入学して以来初めてBodyChnaceレッスンが辛いと思ったのです。
それについてレッスンを受けた全ての先生に言われたことは、「実は見えてるんだよ」でした。

      

【観察に判断が入ってしまう】   

BodyChanceの先生たちのことは皆信頼していましたが、先ほどの「見えているんだよ」に関しては全然信じられませんでした。
だって、本人が見えてないと思っているんだから。

実際、生徒の動きの何が良いのか悪いのかも全然わからなかったし、分からないからどうアドヴァイスしていいのかも見当もつかない。

レッスン受けるのが怖くなった時期でした。
それでもその時期は楽器も持たずにBCに行き、ティーチングだけ受けまくりましたが。

ある時、その状態を脱するヒントをキャシーがくれました。

キャシー先生は、BodyChnaceが招聘するアメリカ人の先生で、BodyChance流アレクサンダーテクニークは、彼女の教育方針とも呼べます。
キャシーは、先ほどの「実は見えている」と言う意味を私にわからせてくれました。
これは、目から入ってくる情報はキャシーも私も変わりなく、私が勝手に見えないと思い込んでいるだけ、と言うことでした。

よく考えれば、そりゃそうですね。
部屋の中を同じ位置で眺めていれば、目に入ってくる情報は同じ部屋の中にあるものだけ。
そこに判断の必要はなく、ただ目から入ってくるものを認めればいいだけです。

私が「生徒の動きが見えない」と思っていたのは、目から入ってくる情報をただ受け入れる事をせず、どこかに判断を入れようとしていたから。
先の文で「何が良いのか悪いのかもよくわからん」というのが正にこれ。
「良い悪い」の物差しで物事を見ようとしていたことが、この感想となっているのです。

この起きたこと全てを受け入れるのが、本当の意味での観察なのですね。
これは、実はなかなか難しい事なのです。

少なくとも、私には観察と判断(あるいは分析)を分けて考える事は出来ていませんでしたし、生徒の動きが見えない理由として、分析できていないと見えていないと思っていました。

だから、何時まで経っても見えた気がしなかったんですね。

「ただ見る」ができるようになったら、生徒が動きまくっているのがよくわかるようになりました。

      

【失敗を認めることが結果的に自分をよく見る事に繋がる】    

さて、長々と自分の体験を書いてきましたが、これがタイトルとどう関係するのか。

練習していると、ミスはつき物ですね。
特に、新たに学んだことを再現しようとしたり身につけようと練習していると、上手くいかないっことが多いです。
そこに「ダメだった」「まだできていない」なんて気持ちになります。

この気持ちはよくわかるのですが、裏を返せば、この気持ちになる事こそ観察ができていない証拠でもあるのです。

よくあることとして、結果的にできなかったことがあったその次に「なぜできなかったか」を考えると思います。
実は、これすらも観察をすっ飛ばして分析しているのです。

ではどうした良いかと言うと、出来なかったことがあったらまず「その時なにをしたか」を思い出すのです。

「その時何をしたか」が思い出せないのであれば、それはプランが明確でなかったり、プランが明確だとしてもその通りしたかどうかをその時観察していなかったからです。
プランが不明瞭であれば明確にし、プランが明確になったらそれをただする。

その時、意識の中に「出来る出来ない」が入ると、出来るものも出来なくなってしまいます。
何故かと言うと、その余分な意識がプランを実践することの邪魔をするからです。
だから、観察に分析は必要ないのです。

観察とは、別名情報集めです。
情報を集めるのに、主観的観点を盛り込んでは情報が偏ってしまったり、決めつけなどの偏見が入ります。
その偏見を入れないためにも、情報集めはただ起きたことを認めるのです。
だから、例え結果的には失敗と思える事も情報とするのです。
「こんな動きや考えをしたからこういう結果が出たのか」という様にね。

その動きによるこの結果は一つのサンプルにすぎない、そう思えば新しい事を身につけるための練習は実験にすぎません。

実験がたくさんできれば結果のサンプルと共にそのプロセスもたくさんできます。
そこには成功のサンプルもたくさん得られますし、ミスと思えるものもサンプルの一つとして認めれば、成功のサンプルと比較してそちらに行くための新たなプロセスを作る事も出来ると思います。

だから、練習において失敗を認める必要があるのです。
練習の仕方にもアレクサンダーテクニークは役に立ちますよ。

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