第176回 生徒の気持ちを理解する事とは

「相手の気持ちを理解する」とはよく言われることですが、子供を諭したりする時にどうしたらよいのか。
なかなか難しいことではありますよね。
それについて思い出したことがあったので書いてみます。

こんにちは!
トロンボーン奏者でアレクサンダーテクニーク教師のかたさんこと片山直樹です。

高校の学年主任

私が高校生の時のお話です。
学年集会のような時に学年主任が話していたことを、先日風呂に入っていたら急に思い出しました。

内容は、教室で放課中にトランプをする生徒に対する注意でした。
トランプというのが、時代ですね。
今のようにスマホのない時代でしたから。
(※放課とは:一般的に放課とは授業が全て終わった後のことを言いますが、愛知県では授業と授業の間の休憩のことを放課と呼ぶのです。逆に授業が全て終わった後のことは放課や放課後とは言わず、授業後や下校と言います。なので本文中の放課中とは、一般的には授業の合間の休憩中となります。)

まあ、お小言です。
正直つまらない内容の話でした。
例えもありきたりでした。

「先生もみんなと同じころはトランプとかしました。でもそれがいい事か悪い事か、大人になってよくわかりました」

この学年主任は、私自身好きな教師だったかというとそうでもありません。
そして嫌いという程積極的でもありませんでした。
学年主任なので姿や声、大体の性格はわかりますが、教科担当だった事もなく接点が少なかったので、それ以上の存在ではありませんでした。

私は放課中にトランプをすることが悪い事だとは思わなかったので、この話はどうでもいい内容でした。
まあ、今でもそんなに悪い事ではないと思っていますが。
休憩中なんだから何が悪い、ってね。
ただ、私はこういった話を聞くのがそれほど嫌いではなく、朝礼時の校長先生の話など割とよく聞いていた方です。
この時も、どうでもいいと思いつつも実はちゃんと聞いていました。

さて、私はこの話の内容、どうでもいいと思いつつも何故か覚えていました。
それは気になった言葉があったから。

気になる言葉

「私もみんなと同じころはトランプとかしていました」

この先生は、当時確か50歳くらいだったと思います。
自分の親と同じくらいの年代です。
自分の親が高校生の頃といえば、戦後の高度経済成長期。
日本人の学力向上のため、世界に追い付け追い越せをめざして厳しい教育がなされ、同時にそんな学校教育に問題が出てきた頃でもあったでしょう。
所謂、昭和の教育真っ只中です。
そんな時代に、授業の合間とは言えトランプ遊びを出来る環境であるわけがありません。

この先生は「私もみんなと同じころは」トランプをしたと言っていました。
私はウソだと判断しました。
出来るわけがない。
この先生は、色白で細面、長身でスッとした姿勢の、見るからに「真面目」な先生です。
ウワサでは聞いていましたが、優等生だったのでしょう。
そんな人が、当時良くないことであるトランプをするわけがありません。

「ああ、この人は降りて来たんだな」

教師の立場で教師の位置からものを言うのではなく、我々高校生の子供目線まで降りてきたことを感じました。

この先生とは、卒業までもこれ以上の接点はなく、この先生に対する私の評価や関係もそれ以上になる事はありませんでしたし、正直この先生に対しこれ以上の目立った記憶はありません。
ただ、風のうわさで最近お亡くなりになったと聞きました。

降りていく勇気

この事を彼が伝えたかったどうかはわかりません。
恐らくはトランプなどの遊びについてがメインのことだったと思います。
トランプがどうだということは全くおぼえていないのですが、この先生が自分を高校生目線まで下して話をした事だけ印象に残っています。
私が勝手にそう感じただけとも言えますが。

自分の子どもを教えたりする時もそうですが、生徒に対して自分が大人の立場であるのを知りながら生徒の場所まで降りていく勇気は、教育者として必要だとも思うのです。

この『大人の立場であるのを知りながら』というのが難しい。
そこに居つづけることは、子供の場所まで降りられないが多いです。
あるいは、言葉使いや雰囲気だけ子供っぽくふるまっても、意識的位置づけが上に居つづけたら、これも降りて行ったことにはなりません。

ではどうしたらよいか。
これは私の勝手な考えですので、異論反論はあると承知の上の発言です。
私は大人であると自覚しつつ、あるいは自覚していたとしても、あえてその尊厳から離れ子供になっていく事かと思っています。
子供になるとは、大人からすれば幼稚と思える思考にも論理性を見つけ、その幼稚と思える論理を認める勇気を持つことです。

それは『大人の立場であることを知りながら』なのか?放棄していないか?と思われるかもしれませんが、大人と自覚しながらあえてそこから離れるのであれば、自分の居場所がそこにあるのを知った状態で離れる事になります。
それだからいいのであって、それが無ければただ単に子供の思考になるだけ、単純に『幼稚な』考えです。

子供を注意するのに大人の自覚なしに降りて行けば、子供同士のけんかになるし、教育になりません。
子供はそんな大人を『子供みたい』と認識してしまうでしょう。

逆に子供の場所まで降りる事に抵抗があり大人の位置に居つづけながら発言すれば、それは上から目線にどうしてもなってしまいます。
しかも無意識に。

誤解の無いように言っておきますと、大人の立場に居つづけながらの発言は必ず必要です。
所謂大人としての意見ですね。
ですが、時には降りていく事も必要でしょう。

辛苦みつつ降ることじゃない

『辛苦みつつ降りき』 (たしなみつつくだりき)という言葉があります。
これは『日本書紀』「神代上」にある言葉で、素戔鳴尊(すさのおのみこと)がその粗暴な振舞で天上の神々から疎んぜられ、地上(底根国)へ追いやられた時の様子を書いたものです。

スサノオは神々のところから追放され人間界に「降った」わけですが、その気持ちは「辛苦みつつ」でした。
私はこの言葉が大好きなのですが、子供の教育においてそれは符合していません。

大人として子供の場所に降りる時、「辛苦みつつ」降りてませんか?
あるいは、降りる事自体「辛苦みつつ」と思っていませんか?
それは惨めで辛いものではなく、将来ある子供たちの為に必要で大切な、大人として賞賛すべきことです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です