こんにちは。
トロンボーン奏者でアレクサンダーテクニーク教師のかたさんです。
《アイキャッチ画像は、2017年バイロイト音楽祭『ニュルンベルクのマイスタージンガー』より》
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【個性の時代】
個性。
この言葉が学校教育現場で現れ出したのは、実はもう長く、私が学生の時の教育実習ではすでに使われ始めていました。
なので、もう20年以上前になります。
日本の教育は、それまでの規律、全体性重視の時代から、子供たちの個性を大切にする時代へと変わったのです。
これはいい事です。
私の中学時代は、まだ教師によるビンタがありました。
規則が守れないと、鉄拳制裁だったのです。
遠足のなどの途中で「水を飲むな」という、現代では、いや現代だけでなく生物学的にもあり得ない指導がされてきた時代です。
それを当たり前の規則として遵守履行が強制されてきたわけですから、当時の教師たちは何を目指してきたのでしょうと、その教育指針に甚だ疑問です。
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まあ、規則遵守は大切なことではありますが、鉄拳制裁は結局個の突出を封ずることになります。
個性の衰亡です。
あの頃も個性に近い言葉はあったのです。
確か「中学生らしい」という表現でした。
お分かりだと思いますが、ものすごく曖昧で抽象的ですよね。
しかもその「中学生らしさ」は、当時の中学生の感性が基準ではなく、大人の中の理想でした。
その大人の理想が基準で出来た「中学生らしさ」は、大人の所有的意味合いが多分に含まれていたと私は思っています。
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【全体主義】
何のために個を没するか、それはある意味全体のため。
全体で何かを成し遂げるために使われる言葉としてチームワークという言葉があります。
個が持つそれぞれの弱さをチーム全体で補うことで全体の力を高める、これはチームワークの良さです。
ところが、これは使い方次第で個を没する理由にもなります。
個性がチームワークの邪魔になると言う理由で、個の突出を許さないことがあり、これを守ることがチームワークと称される場合もあるのです。
高野連で問題とされてきた「個人の責任はチームの責任」というやつです。
一人の生徒の不祥事の為に、チームの出場が消されてしまうこと、今までたくさんありました。
これは、高校野球だけ見ると「それでいいのか」という疑問も湧くのですが、政治家の不祥事を見てください。
一人の議員の不祥事により、直属の上司である大臣や、場合によっては総理大臣の辞任まで要求されます。
そちらは何の疑問も湧かず「当然」と思われる人も多いでしょう。
つまり、こういう体質のお国柄なんでしょうね。
所謂全体主義というやつです。
政治ならばこれは当然、でも高校野球でこれはかわいそう、と分けられればいいのですが、国民的な気質を改革するには相当の年月が必要でしょう。
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教育における全体主義は、没個性を生む要因と成り得ます。
過激な言い方をすれば、ヒトラーと変わりません。
社会においても同じだと、私は思います。
そんな中、個性を大事にする時代が来たことはとても嬉しい事なのですが、最近その個性を大切にする意味が、どこか私の思いと違っていることに気が付きました。
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【全体主義と個人主義】
私の中の個性とは、どうも「個人主義」のことだったと気が付きました。
これは私の見解ですが、先ほど出てきた個性とどう違うのかというと、先ほどのは「全体主義の中で出す個性」のように思えます。
これは、「集団行動を乱さない程度に個人の特技を出すのが個性で、突出してしまうのは個性ではなくワガママ」という認識に感じます。
日本の分化的なものも背景にあるので一概にいかんとは言えませんが、どうも「全体的な方向性を変える可能性のある意見まで言わない程度の個人的な特徴を持った意見や行動」が、日本でよく言われている「個性」のように感じます。
個人主義とは何かというと、これも世の中色々意見があり多義に渡るのであくまで私の意見ですが、個人の尊厳を重要視し、そこから発生する意思を尊重し、その意志を共有できる環境を互いに作り合うこと、それにより個々の自立や発展をめざし社会に寄与する、このようなものだと考えています。
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【オーケストラは個人主義?全体主義?】
ではオーケストラというのは、どちらなのでしょう。
「個々の特徴よりオケに合った人材を求める」という意味では全体主義である、という意見もあるでしょう。
どのオーケストラでもある伝統的な音作りを目指したり、サウンドの統一性を重要視することがあるので全体性は必要です。
なので、個人の個性的魅力よりオーケストラとしてサウンドを作るのにこの人は適しているか、という観点も必要になってきます。
そのため、ウィーンフィルのように楽器までも統一しているオケもあります。
でもこれは、はたして没個性の全体主義なのでしょうか?
私は思います。
オーケストラこそ、個人主義であるべきでしょう。
いえ、実際そうなのです。
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昔、ドイツのベルリンコミッシュオパーの団員として演奏した経験のある方と話をした事がありました。
オーディションに合格して初のコンサートの時、曲も指揮者も、団員としても初めてと初めて尽くしで、曲もオケの特徴も演奏の仕方もわからんし、とにかくいっぱい間違えたそうです。
飛び出すわ落ちるわで「あー絶対クビだ」だと思っていたけど、終わってみればそれはなく、それから2年在籍したそうです。
2年後、彼は自身の夢である指揮者の道を諦めきれず自ら退団、帰国後指揮者として活動を始めます。
彼がなぜそれほど沢山の失敗をしたにもかかわらず、クビにならずにメンバーとしてやっていけたか。
それは、彼の中にある音楽がオーケストラに認められたからだと言っていました。
「自分の演奏がオケと合っていると言うよりも、『こいつとなら楽しく音楽出来ると思ったから』と他のメンバーから聞いた」と話していました。
オーケストラの目指す方向性は重要でしょう。
しかし、方向性に合う合わない以前に彼の持つ音楽がオーケストラメンバーにとっては重要で、この出来事はメンバーが彼の音楽を尊重したから成り立った関係です。
「オーケストラに合う合わない」「ミスせず演奏出来た」だけが基準で選ばれたわけではないと言うことです。
これは、オーケストラが全体の中における彼の個性を尊重した「個人主義」だったからです。
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【個人主義と発達障害】
私は、発達障害コミュニケーション指導者という資格を持っていますが、そもそも障害という言葉は、「本人またはその家族などが生活していく上で困難を感じる、または実際にあること」を指します。
これには「社会全体の中に馴染めない人は障害がある」という意味が多分に含まれます。
もし社会が、それらの子供たちを受け入れる環境になれば、それを個性として認識されるようになればどうなるでしょう。
西洋とは基盤としての文化と、そこで培われてきた政治や教育の歴史の違いがあるので簡単だと思いませんが、日本も個人主義的に個性を大切にするようになれば発達障害という言葉も必要なくなる世の中になるでしょう。
教育において大切なのは、枠の中に納まるかどうかの判断ではなく、その子自身が持つ輝きを生かしていく事だと思います。
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