第276回 不安を取り除く≠自信を持つ

トロンボーン奏者でアレクサンダーテクニーク教師のかたさんです。

《過去メルマガから》

『不安というのは主観的ながら、その〈たね〉は相手にある』

これは、司馬遼太郎の名作「項羽と劉邦」の中の一節です。 

秦の始皇帝亡き後、二世皇帝に胡亥(始皇帝の末子)を祭り上げた始皇帝側近の宦官趙高は、これに起因する皇族や重心たちからの疑念に不安を抱いた。
それに対し彼の取った行動は『不安を取り除く』ことで、この場合の『不安を取り除く』こととは、不安の種である彼らを殺し尽くすことでした。 

不安を取り除くという考えは、自分の中の不安をどうにかして消すことですよね。 
『不安というのは主観的ながら』について、不安とは趙高の心にある幻想が生んだものかもしれないと司馬遼太郎氏は書いていますが、様々な悪事を働いた趙高には常時不安を感じずにはいられなかったのでしょう。
それを取り除くために、自分の外にある不安の種をもみ消すことで安心を得ようとしていました。
しかしその規模はどんどん膨らんでいき、政治不安だけでなく社会不安にまで発展してしまい、その結果、陳勝・呉広の乱を生み、やがて秦帝国は崩壊、項羽を降した劉邦による漢帝国成立へ繋がります。   

『不安というのは主観的』とは、上手い表現ですね。
まさにそうだと思います。
自身の持つ何かが、心に不安を呼び起こすのです。

第六感的なものもあるかもしれませんが、不安とは、基本的にその人自身が作り出すものです。
短絡的に言えば「思い込み」とも言えます。

その思い込みに端を発する不安解消のために、「思い込まれた」側の方を排除しても、根本的解決にはなりません。 
趙高でいえば、外部の人間たちを殺しまくっても、今度はそのことに対して新たな不安が沸き上がります。
「こんなことをしたら疑うやつが出てくる、次はそういう輩を排除しよう」と、際限なくなってしまいます。

負のスパイラルです。 

これは、不安の基を排除しようと思ってもできないことを意味します。   

音を外す不安を無くすために、外れる要因をすべてなくそうとするのは、一見良さそうに見えてその実不安探しをしていることと同じだと私は考えます。

視点が不安に向いているからです。
求めるものが不安に向かっているので、すること成すこと全てに不安を感じます。

つまり、安心を求めてはいないのです。 

これは、「不安を無くすこと=自信になる」とは言えません。

私のレッスンテーマである「不安を自信に変える」は、結果的に不安が取り除ければ良く、それを目的としてはいません。
目的は自信をもって行動できること。

 不安を自信に変えるには、「無くす」ことではなく「する」ことと私は考えます。 

アレクサンダーテクニークは「やめていくこと」と言われています。
結果的にしたくないことをしなくなっていくことです。
そのため、ディストニアなど勝手に起こってしまう体の不具合を解消するのに効果的なのです。 

ですが、その内容は脱力などとは全く違い、もっと能動的で建設的です。
決してやめることを目的としていません。
したいことをする、出来るようにするのが目的です。 

『不安が主観的』であればあるほど、不安の基を無くすのに手っ取り早いのは自身を殺すこと、でもこれでは元も子もありません。
自身が幸せになることが一番なわけですから。

 幸せに向かってすべきことをするのが、結果的にしたくないことをせずに済む、最も近道なのではないでしょうか。 

最近レッスンとは別にこのようなことを考えさせられることがありましてね。
人との関わりはこういったところでも現れるんだなと、改めて感じた年でした。

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